光の話 Lighttale for Art and Culture

人間の時間と光のアート
半田滋男

「光」が美術の主役となり得たのはいつの頃からだろう。

戦前のバウハウスの試行は措くとして、戦後ではアルテ・ポーヴェラのマリオ・メルツ(伊)、コンセプチュアル・アートのジョセフ・コスース(米)たちがネオン管を言語や文字を表象するメディアとして選んだことが記憶に残る。

光はその本性に物性を備えない故に、概念を高純度に掬い上げる手段として有効であった。

彼らと活動時期も重複するミニマリスト、ダン・フレイヴィン(米)は光源をメディアとして選択するのではなく、それ自体を目的に位置づけた点で転換点にあたる。以後、認知心理学からアプローチするジェームス・タレル(米)、90年代のミシェル・ヴェルジュ(仏)の屋内外のプロジェクションによる諸作品、TATE Modernでの「ウェザープロジェクト」(2003)に名を残すオラファー・エリアソンなど数多の作家たちが、光とそれを包含する人為、宇宙空間、自然現象に対する関心を露呈している。

さて、それらの展示にも関わってきた展示施設、美術館は一方で保管機能を持ち、あらゆる美術を後世へ向けて延命させようとする。博物館とはそもそもそのような使命を帯びているものであるから。

その際、特にその時代の固有の技術に即した人工光源を使用している作品の多くは、保管に際して、いささかの問題をもたらすことになる。よもやロウソクが生産されず、入手できなくなる時代は来ないだろうが、たとえばヴェルジュの作品の光源で使用されるHMIのような放電管、フレイヴィンの蛍光管でさえも数十年後に入手可能とは限らない。フレイヴィンの作品部材は財団が管理していると聞くが、蛍光管の生産が中止されれば全くオリジナルな状態での恒久的管理は困難となるだろう。私が勤務した美術館でもコスース、ヴェルジュの作品を収蔵しているが、そのあたりの対策は未確立の分野である。保存科学の研究が確立している絵画やデジタルアーカイブが進む映像とは別に、広義でのメディアアートについては技術が遺棄され再生機器が寿命を迎えた時、再現がかなり困難となる作品がでることが予測される。

願わくは、エネルギー確保や移動の手段について多様性の確保がいうまでもなく重要なことと同様、日常的な光源についても、冗長性が確保されたいものだ。ハロゲンランプと、波長域の狭いLEDが視神経を通じて脳に与える影響の差違は、少なくとも視覚芸術の領域からは未明であり、私のような守旧的な人間にとっては、画像のデジタルデータへの完全移行にも不安を覚える程であるから、光源技術の不可逆的な移行が行われるとすれば、何となくではあるが、得体の知れぬ不安を感じるのである。

光の作用に拘泥する作家は日本にも多く活動する。逢坂卓郎がかねてより宇宙線を捕捉してはLEDで可視化し、03年には月光を鏡面によって収束させる「Luna プロジェクト」を試みており、またそれと全く異なったアプローチだが、渡辺好明がロウの燃焼による経時的作品「光ではかられた時」を突然の逝去まで一貫させてきたことを挙げておきたい。

机上に据えられた一本のロウソクから想像できるように、光源とはそれだけで人心を奪う求心力を持つ。そして光の前には、鑑賞者が等しく空虚かつ豊穣な時間を費やすことになる。

今ここに挙げたような作家の作品に接したことのある人なら、だれでも体験しただろう。その展示空間で、自分たちは何らかの対象物に対峙し、鑑賞しているのではなく、実際は内省的な時間を過ごしているということを。

もう10年以上前の展覧会でみた光景であるが、渡辺好明の「Zeit/Licht」、それは床のタイルの模様に沿って矩形に並べて立てられた無数のロウソクに、ゆっくりと一本ずつ炎が燃え移って行く作品だが、その作品のある空間で、来訪者たちはただ思い思いの姿勢で佇み、明らかに忘我の時を過ごしていた。

宮島達男が長年取り組むLEDデジタル・カウンターによる作品も、同様に静謐な時空をもたらすことがある。その作品が常設されている直島の古家で、室内に据えられた浅く広い水槽の底で変化してゆく数字のカウンターの前から足早に去ろうとする者は少ない。

その意味で、ヴェルジュ、エリアソン、そして渡辺たちの諸作は、音楽、演劇とは異なった意味での時間芸術の意味を有し、展示空間でも絵画や立体とは全く異質な雰囲気を醸成する。光源から発せられる光線とは、その本性からして、人間的時間と不可分の現象であり、それ故に、アーティストたちによって巧みな方法で呈示された際には、ひとの意識を吸い込むかと思われるように作用することもあるのだ。それは、予期せずして遠大な自然現象に接した際に得る有無を言わせぬ刺戟にも似ている。

半田滋男 和光大学表現学部芸術学科教授、元千葉市美術館学芸員。