光の話 Lighttale for Art and Culture

美術照明という仕事
光る知覚オープニングトーク 藤原工

2017年4月29日、展覧会「光る知覚 Touching the Light」にて、株式会社灯工舎の灯工頭・美術照明家・光文化研究家の藤原工氏をゲストとして招いたオープニングトークが開催された。トークは前後半に分かれ、前半では藤原工氏が灯工舎の仕事についての講演を行った。当テキストはその内容をまとめたものである。

*記事中には参考写真を掲載予定です。現在手配中です。

目次

灯工舎

藤原工と申します。私が何をしているかというと、灯工舎という会社を設立して、そこで光の仕事をしてます。美術館や博物館、そして展示の照明を行っています。ですのでアーティストというわけではなくて、アート作品に対して光をあてるという、所謂照明屋さんですね。

藤原工の工が灯工舎の工であり、自分の名前に引っ張られて人生を歩んでいるという単純な人間です。灯工というのは私の造語ですが、大工さんとか木工さんとか陶工さんの同じ並びで、光を司る工と言う意味で灯工と名付けました。その灯工が集まる「舎」、場所ということで、灯工舎という社名にしました。私はその灯工の灯工頭。社員が一人いるのですが彼は灯工。そういう形で会社をやっています。

なぜ灯工なのか。本当は「照明デザイナー」といったほうが聞き覚えはいいのですが、デザイナーというとどうしても形だけを作っているという感じがしてしまいます。光というのは経験工学という言われ方をしていて、頭で考えているだけではわからない。どうしても現場に行かないとわからないことがあります。だから灯工という職人として、理を知り、光とはなんぞやというのをちゃんと知り、そして技を磨く。さらに、見て感じる心を養い、目を養う。そのスパイラルでなければキチンとした光をやる人間は育たないということを理念にしてるためです。ですからうちの人間にも年に一回ちゃんと論文を書けとか勉強しろとか言っていますし、現場にも絶対行かせます。

私は基本的に美術をフィールドの中心にしています。建築と美術を光によって結びつけるのが仕事ですが、その中にもいろいろなフェーズがあります。一つは「Museum」。箱ものとしての美術館です。美術館の照明のシステムや、基本となる光のあり方を作る仕事をしています。また日本における美術館の源といえる、お寺などの「Traditional Space」。これは、まず元々そこにどのような光が存在しているのか、伝統空間というものは何なのかを知らなければなりません。そして、アートに近づくことができる「Exhibition」。展覧会の照明です。この3つのフェーズすべてにおいて、美術と空間を光によって結びつけるという仕事をしています。

Museum — アートのための光の器

ミュージアムでは、アートのための光の器を作るというのが私の仕事です。光の器の中にいろんなアートが来ます。現代アートもあれば、昔の考古的なものまで、いろいろな資料があるわけです。そういったものが、なんでもござれみたいな館もあれば、ある程度専門的な館もあります。

静岡市美術館

例えば静岡市美術館は市の美術館なので、なんでもありです。現代アートをやっている時もあれば、日本画をやっている時もあります。静岡ですから甲冑を置いていることもあります。なのでそれらのための器として、できるだけ何にでも変われる空間のシステムをデザインしました。

展示室の中は光天井になっています。大体1800角の白いライトボックスが並ぶように配置されているのですが、その間の黒い溝のところにスポットライトや空調などの設備がすべて収まっています。白いボックスは暗くすれば黒い天井になりますので、いろいろな空間に変えられるシステムです。これは何にでも転用できる器ですね。

奈良国立博物館 なら仏像館

奈良国立博物館のなら仏像館が2016年の春にリニューアルした際に、光環境のリニューアルを行いました。こちらはなんでもやるわけではなく、仏像のためだけにある空間です。では仏像のためにはどんな光が良いのか、ということから始まりました。その上、なら仏像館は重要文化財建築物なので、その建築における光の再生というものを行います。建築家の方と一緒にいろいろと考えて空間を作っていくのですが、私は一つやりたかったことがありました。仏像の照明というと、どうしても暗い中で陰影を強く出されているというイメージがありますが、それは違うのではないかという気がしていました。このような、お寺ではない場所に仏像がある場合に適した、より自然なしつらえがあるのではないかと。その一つの答えとして、なら仏像館では柔らかい空気に包まれた空間を作りました。柔らかい光の空間を作り、その中に仏様たちが佇んでいます。

建築の中に入れ子構造の空間を作り、アッパーライトを入れて元々の建築の内装も見えるようにしています。トップライトもLED照明で再生して、空間全体の約7、8割を柔らかい光がを占めています。そこにスポットライトで残り2、3割の光を足しています。やはりスポットライトは入れないと仏像がおぼろげになりすぎて、衣紋などの彫りの深さや鋭さをきちんと表現できません。それはそれで見えるべき美なので、スポットライトなども組み合わせて、ほどよい、見えやすい空間を作りました。

増上寺 宝物展示室

増上寺の宝物展示室は、展示室の中央に昔の増上寺境内にあった「台徳院殿霊廟」の大きな模型があり、それを囲うように三方の壁面に展示ケースがあるという空間です。増上寺と言えば五百羅漢で有名なので、周辺のケースでは基本的にそれを展示していますが、いろいろな展示が可能です。ですので、真ん中は専用の空間、その周りがいろんなものを展示できるシステマチックな空間であり、それぞれの空間に適した光を融合させています。

模型の光として光天井を作っています。その中は蛍光灯が敷き詰められているのではなく、たかだかスポットライト8灯だけで均一に照らしています。大変省エネルギーな光です。また周囲の展示ケースには、ミラー反射で光を落とすというとても特殊な仕組みを作っています。なぜそのようなことをしているのかというと、ローコストで行う必要があったからです。一般的な展示ケースの1/10くらいのコストで作られているのですが、だからといって出来も1/10だと問題なので、ミラー反射という新しい方法でケースを作りました。高さが2m以上ある大きな掛け軸がケースの中の奥行き30cmのところに展示されるのですが、普通30cmのところに展示をしたら上の方ばかり明るくなってしまい、下の方には絶対に光が届きません。けれどもこのケースでは光を内回し外回しのダブルでミラー反射することによって、外側から気軽に簡単にライティングができるようにしています。これはローコストで綺麗な光を作り出すために考えた、専用の光のシステムです。

山種美術館

山種美術館は近代日本画のための空間です。日本画というのは空気感がすごく大切なので、展示ケースにとてもこだわっています。そこで、見上げても中の照明が見えないというケースを作りました。今ではその形のケースは増えてきていますが、これが一番最初に作られたものです。小さい美術館であれば私が別に作っているものもあるのですが、それなりに大きい館で下から見上げても光が見えないというケースがデザインされたのはこれが最初だと思います。それを照明の色温度を変えられるようにして、どのようなタイプの絵画が来たとしても、良い形に光を纏わすことができるというものにしています。

光が外側から見えないということは、ケース内の光が外側に漏れないということです。光が外に漏れないということは、中のものが大変クリアに見えます。人間は眼球に視線方向ではない方向から変な光が入ると、それが水晶体やガラス体の中で乱反射してしまって、ある程度見る物の彩度が落ちてしまうという状況になります。綺麗にものを見せるには、やはり目には余分な光は入れない。そのためには外に光を漏らさない。できるだけクリアに見せてやります。そのためこのケースはガラスの存在感がありません。鑑賞者の体を照らす光がなく、ガラスに体が映り込まないからです。あまりにクリアなので、開館当初は頭をゴチンゴチンとぶつける人がたくさんいました。

MOA美術館

現在の最大のゴッチンゴッチン空間が、2017年2月にリニューアルオープンしたMOA美術館です。近世近代の日本や東洋美術中心の館ですので作品はケースの中で展示されているのですが、頭をぶつける人が続出しています。こちらは杉本博司という現代美術家がディレクションしているので、他にはない美術館になっており、ケースの対面の壁が黒漆喰になっています。黒漆喰ということはそこで光を反射しないので、ガラスにバックの光が映り込みません。しかもこれは山種美術館の時に培った下から見上げても光が見えない、外に光が漏れないケースにしているので、自分も光らないし、黒漆喰のため背後も光らない。そのため全くガラスがあるように見えません。リニューアルのオープニングに私も立ち合ったのですが、オープニングの第一声というか、第一音が「ゴチン」でした。それくらいガラスが見えません。是非ともどれくらい見えないか体験してみてください。

その他に、いろいろな屏風や焼き物など東洋美術のために様々な光を作ることができる照明もあれば、ある作品のための専用の部屋もあります。黒漆喰の小部屋中に色絵藤花文茶壺が綺麗に浮かび上がっている空間は、是非とも見て欲しいですね。

このようなものが、ミュージアムで作っている、器としての光です。

Japanese Traditional Space — 祈りの橋渡しとしての光

今度はジャパニーズトラディショナルスペース、伝統的な空間です。簡単に言えばお寺や神社ですね。もともと私はお寺や神社が好きなのですが、こちらはどちらかというと美術品ではなく信仰対象なので、どれだけ祈りの空間を作れるかということになります。人々の祈りの橋渡しとして光というものをどう使えば良いのかを考えながら光を作っています。

新薬師寺

新薬師寺は十二神将のバサラ様が有名だったりしますが、2014年に私の方で光のリニューアルをしています。こちらはご住職から「祈りの空間を取り戻したい」と依頼されました。真ん中に薬師様がいて、その周りを十二神将が囲んでいるという、薬師如来中心の空間を取り戻して、祈りの空間を作りたいということです。

お寺などの空間でまず行っているのは、外光を遮断して空間を作りだすということです。お寺においては、日光が入ることによって美術品がボロボロになっているという現実がまずあります。少し前までは人がお寺に行くということがあまりなかったため、閉じられていることが多かった。だから守られていたのですが、最近はみなさんすごくお寺に行くので、多くの光が入ってしまいどんどん損なわれていっているのです。とはいえ信仰対象ですから、博物館に移動することはできない。そのため私は外光を遮断して、その中でできるだけ人工的な光、紫外線などがない光によって信仰空間を取り戻します。それが私がやるべき仕事の一つかなと思っており、いくつかのお寺でそのようなことを行っています。

新薬師寺ではお薬師様も十二神将も国宝ですが、建築自体も国宝建築です。国宝建築というのは照明を取り付けるのも大変うるさいです。制約が多い中でどれだけ仏様を空間の中に浮かび上がらせ、光を形作ることができるかということを、実験をしながら行っています。かつ新薬師寺は土俵の上に円形に十二神将が配置されているので、対面から反対側を照らしているライティングが見えてしまいます。それをどのように見せないようにするのかなど、いろいろな制約がある中で、専用の器具を開発するなどしてライティングをしています。

修二会の際には扉が開かれ、外からろうそくの明かりの中に仏像が見えるのですが、その時には心地よい形で仏様が堂内に浮かび上がってくるという状況になります。それくらいの、佇んでいる空間性が良いです。あまり美術館の照明のように、宝石のように、照らしてはいけない。空気をどのように持たせるかということを考えながら、かつ、修二会のような法要の時にはろうそくとの明るさのバランスが丁度良いキワの部分、そのような光を作り出します。いかにも美術品に当てていますよではなく、信仰の対象のものが浮かび上がっているという自然な状態。それをどのようにすれば光として作り出すことができるのか、ということを行っています。

東寺 灌頂院

東寺の灌頂院にて2014年、京都非公開文化財特別公開として対面する曼荼羅にライティングを行いました。展示用の光というよりは、イベント的な光です。灌頂院は石畳が黒いので、一週間という短いイベントということもあり思い切って全く足元照明をなしにし、足元を真っ暗にしました。普通、美術館はそこまで真っ黒にはできません。そして、地面に足が付いているのかもわからないほどの真っ暗の中で、曼荼羅だけを照明し浮かび上がらせました。そうすると宇宙を感じます。吸い込まれていくような空間が作れる。曼荼羅という宇宙を感じさせるための空間を作る装置でもある灌頂院で、かつ曼荼羅だけが光をまとっている状態をつくりました。

ここに行った人は曼荼羅自体が発光しているように感じれます。周囲に光をできるだけこぼさないようにすることで、曼荼羅から光が発せられているように見えるのです。やはり仏様や神様は光の象徴なので、光をあてる対象ではない。彼らは光を発する対象です。そういったものを大切にしています。これも祈りの橋渡しとしての照明です。

上賀茂神社 下鴨神社

上賀茂神社、下鴨神社の式年遷宮のライティングをした時にも、やはりライトアップという形でスポットライトの光をバシバシ当てるのではなく、本殿の中から光が漏れてくるような照明をしました。本殿の内側に光をつけさせてもらい、あとは神域である森を柔らかく立ち上げて、空間、「域」ですね、そういった場所性及び神性が感じられるような光を作りました。

このように、同じ建物の照明であってもミュージアムとこのようなトラディショナルスペースでは光の扱いが全く違います。どちらも考えなくてはいけません。

Exhibition — Art に空気を纏わせる

今度はエキシビジョンです。アート、美術品のためだけに光はどこまでするの?というのがエキシビジョンの光です。私は光というのは空気だと思っているので、アートに空気を纏わせる仕事だと言えます。例えば「絵画」と呼ばれるジャンルがありますが、絵画であれば作品はみんな同じ光でいいのかというというと、そうではありません。同じ絵画でも作品によって求められる光は異なります。

絵画によって求める光は違う — 山田正亮展とティツィアーノ展

2016の秋、東京国立近代美術館で行われた山田正亮の展覧会と、全く同時期に行われた東京都美術館のティツィアーノ展、二つの展示の照明をやらせていただきました。この二つの展示はある意味真逆な空間を捉えています。

山田正亮展

山田正亮の作品は抽象画です。私は抽象画というのはある意味で「書」と同じと思っており、画面の外にまで絵画が影響を及ぼすと考えています。一点一点を閉じ込めるように光を当てるのではなくて、空気が充満をしているかのように、外にまで絵画が侵食して繋がっているかのように光を作ろうというのをコンセプトにしています。そのために、作品をスポットライトで当てるだけではなく、会場の天井に大きな白いライトボックスを設置し、それによって作品の周辺も光らせました。ですので空間も実に明るいです。部屋によって異なる形のボックスを配置しており、ある部屋では部屋の中央に門のような造作を作り、その門構えの裏側に光を設置して向こう側の壁にある作品を照らしました。これらはこの展示のためだけに作ったものです。

なぜこのような光を作ったのかというと、作品一点一点が分断されているのではなくてすべてが繋がって一つの空間、作品が作られていると考える時に、スポットライトをあまり使いたくなかったからです。なぜかというと、スポットライトによって絵画の厚みの影が下の所に出ますが、それを極力避けたかった。この門構えのライトボックスは、本当はすべてこのような形でやりたかったのですが、横からも上からも全方向から光が回り込んでいるので絵画の影が出ません。そうなってくると、厚みや奥行きを感じさせません。また、天井から照明すると壁の上の方が明るくなるので重力が感じられるのですが、それがありません。そのため、そこに絵画が浮遊しているように感じられます。そういう空間を作ることで、よりアートと見る人との隔たりをなくしシームレスにできる。それを実現したかったのです。抽象画の空間としての光のあり方の一つです。

そもそもなぜそのような考えに至ったのかというと、もともと書道の作品のライティングをしていた時にも感じていたのですが、2012年に同じ国立近代美術館でジャクソン・ポロック展のライティングをした経験がきっかけです。初めて抽象画というものに対して真面目にライティングをする機会だったのですが、ポロックも画面の外に非常に影響力があるんだなということがわかったのです。その時は用意周到には準備ができなかったので、その時のリベンジ戦のような形で山田正亮展の照明を行いました。

ティツィアーノ展

ティツィアーノ展では打って変わって、会場が暗くて暗くて不満が続出しました。都美術館から怪我をすると言われてしまい、実は会期中に二回床の光を増やしています。一番最初のレセプションの時はとても暗く、壁に作品がポンポンポンと点在して見えるような、最低限の足元明かりで照明していました。そのようにすることで画面の中に描かれている場所に吸い込まれるというか、その中に入り込むことができるからです。

この展示では、額縁は窓かもしれません。私はいつも掛け軸や額縁の絵を見るときに、この額や周辺の資材は何のためにあるのかを考えます。空間を切り取っているのだろうか、時間を切り取っているのだろうか、そのようなことを常に考えながら作業を行うのですが、ティツィアーノの場合はやはり窓というか、ドラえもんのどこでもドアのようなものだと思っています。実は向こう側に開けて、世界が広がっている。山田正亮の抽象画は絵の手前に侵食してつながっていく空間なのに対して、ティツィアーノは画面の奥に空間が広がっているんだ、そのような考え方でライティングをしています。そのため二つの展示は明確に異なる光になります。

ライティングの際には他にもいろいろなことを考えなければなりません。ティツィアーノのような油絵は表面がオイリーで、スポットライトの光が反射してテカテカしてしまいます。それが嫌でできるだけテカらないようにするために、いろいろなところから照明を打っています。最後の晩餐の絵では横2、3m離れたところから斜めにスポットライト入れているので光が横に伸びてしまっています。しかし正面から照明を入れると光が反射して、キリストの顔が見えなくなってしまうのです。キリストは光だから見えなくて当たり前、というように教義的にはそれもありかもしれないですが、そういうわけにもいきません。2mくらい横に離れたところから光を入れることによって、表面のニスや油のテカリをなくし、描かれている空間、情景をよりダイレクトに感じられるようにしています。これは先ほどの山田正亮とは全く違う考え方です。

日本とエジブトの異なる光 — 快慶展と黄金のファラオ展

今年2017の4月、2つの立体的なものの光を同時に、それも真逆とも言える作品の照明をやりました。一つは奈良国立博物館の快慶展。そして静岡県立美術館の黄金のファラオと大ピラミッド展。快慶とファラオのライティングを続けて行いました。

快慶展

快慶は、先ほどの信仰空間にあるべき仏様が、美術館の中にいらっしゃっています。奈良国立博物館では仏様を美術品としてではなくきちんと仏様として扱っているので、毎朝法要している。博物館というのはすごいと思いますね。快慶展ではその仏様のための空間ということで、いろんなことを考えながらライティングをしました。

仏像は、できるだけ自然な光を当てたいのでスポットライト感をできるだけ減らしたいと思っています。この仏様は右手に棒を持ってらっしゃるのですが、普通にライティングをするとその棒の影が絶対に体に入ってしまいます。例えば前に手を合わせている仏像は、合わせた手の下が影になる。そういったものが私は大嫌いなので、棒などを持っている場合は4灯くらいに光を切り分けて、棒の影が体に入らないようにします。かつ、その上でできるだけ自然な陰影を作っていきます。例えば手を前に合わす仏像であれば、その手の上と下で光を切り分ける。そうすることで影を下に出さないようにします。できるだけ自然な形にする。なぜならお堂の光において影は絶対にできないからです。また、仏様に影があるというのはあまり良いことではない。なので私は影を極端に嫌うライティングを心がけています。

仏様は空気感が大切です。いかにも当てているという感じではなくて、佇んでいる、おぼろげに光を発しているようにします。光、空気を身にまとっている形です。いかにも照らしています、という風に照明すると、仏様ではなくてただの美術品になってしまいます。できるだけ空気感を大切にする。そのためには後ろの影や、バックとの馴染みや輝度差も大切にしています。

もうひとつ大切なのは、仏様は眼が命ということです。仏様は眼が重要です。どれくらい重要かというと、出来の良い仏様は眼の角度を見ると、だいたいどの高さに安置されていたかがわかります。ちゃんとみなさんを見ている。みなさんから見る高さに眼の角度が設計されているのです。そのため仏像の眼は見えないと、見る人との間で対話がなりえなくなってしまいます。そういったことも考えながら最低限眼を感じさせる、視線を感じさせるようなライティングが重要です。

ほとんどの展覧会で仏様は、全身としては良い形のライティングがされていても、瞳が若干まどろんで見えてしまい、寝ているように見える方が多いです。でも仏様たちはホリが深く奥目で照明の当て方が大変難しいんです。しかし、やはり寝ていると人と意思の疎通ができません。仏様なので何らかのコミュニケーションをとりたい。ということで、快慶展である仏様には目の中に光を入れました。玉眼の中にLEDを仕込んだなんていうバカな話ではなく、斜め前のところに、眼にちょうど反射する位置に光を設置しました。右目用左目用それぞれ目に光を映しこむためだけのスポットライトを設置し、正面のある位置に立つとその反射が見えます。そうすることで目に光が入り、人との疎通が図れます。もともと良い仏様は、人が前に佇んだ時、ろうそくの光が目に反射したのではないかと思います。だから玉眼というのが必要であった。玉眼が意味を持ったのはこのように光を反射するからだと思います。眼に光を閉じ込めるというのはそれくらい重要かなということで、余裕があって可能な時にしかできないのですが、このようにできるだけその仏様のためだけの光を作っています。

ファラオ展

実は今回、私は初めてエジプトのものを照明しました。今まで200回以上の展覧会をこなしてきているのですが、生まれて初めてのエジプトのもので、とても嬉しかったです。エジプトと仏像で何が違うのかというと、もともと持っている光が違います。仏様はお堂という日本建築の中にありますから、横もしくは下方から光が当たるのに対して、エジプトでは上からの光です。なので陰影をきちんとつけようとライティングをしました。影を作るのは太陽だから、上から光が来るのは当たり前じゃんということで気軽にライティングしましたが、それでも私はいくつかのポイントを持っていて、一つ一つスポットライトの位置や角度を調節しています。すべてが一番いい角度で照らせるように一灯一灯のために小さなライティングダクトを特別に用意し取り付けるという、とても手間のかかることをしました。

なぜそのようなことをするのかというと、影があまりにも出てくると鼻の下の影が伸びすぎて口に引っかかり、変な顔になってしまいます。かといってその影を減らそうと前から照らすと、実はエジプトの彫刻というのは彫りが浅いので薄い顔になってしまいます。恐らく太陽の南中高度が高く影ができやすいので、彫りが浅いのではないかと思っていて、いろんな世界を調査してみたら南中高度と彫りの深さの関係というのが出るのではないかと勝手なことを考えていたりしています。それくらいスポットライトの角度は重要です。一つ一つ、目のまぶたの影、口の影、それが一番良い配分になる位置をいちいち設定しながらライティングをします。

エジプトの彫刻はやはり太陽感を感じさせるものが多く、いかにも太陽に向かってますとう感じに上を向いている彫刻もあります。かといえばお墓だったりもするので、お墓のような空間性のあるちょっと寂しげなライティングをしたり、エジブトなのに三途の川のような演出をしてみたりもしました。ミイラだったので、三途の川を渡った先にいるのかな?ということで青い光を床にポンポンポンと入れて川を作ってみました。何の前打ち合わせもなく私が勝手に入れたのですが、エジプトの方はとても喜んでいました。

眼に水晶がはめ込まれている玉眼の彫刻がありました。その玉眼を照らしてくれとエジプトの方からリクエストがあったので照らしたのですが、それはなんとも間抜けな顔になってしまいました。やはりエジプトは日本の仏様と違って、陰影があった方がいいなあと思ったのですが、向こうが良いと言ったのでそのまま残しています。それには別の光の入れ方をした方が良かったかなと思っています。

黄金でできているファラオの仮面は、できるだけ黄金が光るようなライティングをします。そう言った部分でいうと、光を身にまとわせるという点では仏像と同じなのだけれど、しかし同じ立体、彫刻であったとしてもまとわせるべき光、空気というものはまったく違います。

正倉院も現代アートも — アートはオンリーワン

私は何でもかんでも光をあてるのが大好きなので、考古資料から現代アートまですべてをやっているのですが、一つ私が気をつけようと思っているキーワードは「アートはオンリーワン」ということです。展覧会を見ていると、油絵が並んでいて同じ光をポンポンポンと真ん中に当てました、という形で、絵の個性を一切考えずにライティングしていることがあまりにも多いです。しかし本来、作品一つ一つの一番良く見える見え方、その場における一番良い見え方というのを常に探る必要があるのです。先ほどのティツィアーノ展のライティングでは、一点一点光を入れる角度が全部違います。それがアートはオンリーワンということです。できるだけそのようなライティングが増えて欲しいと思っているので、このような機会にお話をしています。

正倉院展

奈良国立博物館で正倉院展のライティングをした際、瑠璃坏のためにオンリーワンのライティングを行いました。ガラスの透明感や表面感が出るようにしつつ、また杯は足元が影になるので、そのほんの数センチの部分のためだけに外からそこだけを照らすライティングをしました。このような展示ケース内の展示の場合は、より良い光を作るためにケース自体を専用に改良してライティングする場合もあります。

別の年に漆金薄絵盤をライティングした際には、光をあてるためにケースを改良しました。絵盤は、絵が描かれている下面が重要なのですが、光はすべて上から当てるので普通下側が真っ暗になってしまいます。そこで上面がミラーになっているステージを設計しました。そしてそのミラーに光を反射させるなどいろいろな光をコントロールすることで、できるだけ物がきちんと生きるようにデザインしました。これも漆金薄絵盤のためだけのオンリーワンの光です。

現代アート

現代アートはアーティストの考え方が一番です。現代アートになると空間とアートは融合してゆきます。その融合を光でどう手助けするのかというのが光の宿命かなと考えています。

東京都現代美術館での名和晃平さんの展示の際には、いろいろと話し合いをし、いろんな実験を重ねて空間を作りました。この展示では白い光の空間いくつかあったのですが、同じ白い空間でも白い光の入れ方によって全く意味合いが異なります。鹿の剥製の作品がキラキラ輝く、煌めきのある白い光もあれば、光が充満しているようなシームレスな白い光もあれば、時間が止まったかのような、堆積したかのような光もあります。このように同じ白い光だけれども、持つ意味が全然違うものを組み合わせながら空間を作っていきます。

またこの展示では、普通美術館では使わないような光で素材感や質感を弾き飛ばし、しかもその空間をつなげることによって人間の目を混乱させるような照明をしました。オレンジ色の照明の空間と、青色の照明の空間を隣り合わせにしたのです。人間には暗順応、明順応などの明るさの順応以外にも、色順応という能力があります。青い空間にいれば、人間は自らの青に対する感受性をどんどん落としていって、赤を感じるようになります。次第に青い空間が自然に感じられるようになります。その状態で隣のオレンジの部屋に行くと凄まじくオレンジを感じます。そのままオレンジの空間にしばらくいれば今度はオレンジに慣れて、また隣に行くと凄まじく青。その横に白い空間があると、白い空間がまた違う見え方をするのです。人の歩き方によってどんどん空間の見え方が変わります。そのような人間の生理的な部分を弄びながら、最後はすべての光を白で結実するようなことを私はコンセプトとしてライティングをした訳ですが、そういったことを作家とともに作り上げました。

他には、森美術館での村上隆の五百羅漢図展。その際にも五百羅漢図のためだけに照明を用意しました。森美術館にはないどでかいスポットライトを設置しています。また、東京都現代美術館での吉岡徳仁「クリスタライズ」展でも照明を用意したのですが、プリズムがあれだけ光るような照明は美術館にはありません。まるで太陽光の様でしたが人工の光です。それだけ強い光を求められたのでその為の光を用意をしたのですが、しかしなぜそこまでするのかというと、コンテンポラリーというのは考古などとは異なり、光に対する制限が少ないのです。作品のために空間があって、空間があるからこその光があると考えた時に、そういったものに制限をかけてはいけません。私は現代アートには、私の持っている光の知識に制限をかけず対応します。ちなみにこの吉岡さんの展示の光は、カシマサッカースタジアムで使われている照明です。実はカシマサッカースタジアムの照明も私の仕事です。私は基本的には美術館博物館が中心ですが、このようないろいろな仕事をしてゆく中で、いろいろな光を扱っています。そのような他の分野から、現代アートへ様々な光を持ってきています。どれだけアートに対して、光として寄り添ってあげられるのか、どれだけ光として尽くせるのかということをしています。

光は黒子

光は黒子です。展示照明において、光があそこから照らしているなというのがわかったら、それは下の下の仕事だと思っています。本当はスポットライトは見せたくありません。どこからこの光は来ているのだろうか?とわからないくらいが最高です。なぜなら光というのは物に当たって初めて見えます。物は見えますが、しかし光そのもの、この空気の中を通っている光というのは人間には見ることができません。宇宙空間にも光は充満しているが、宇宙は闇です。つまり光は究極の黒子なのです。そのような答えを残して、私の話を終わらせていただきます。

トーク後半「アートと光の心象風景」へ続きます。

藤原工
株式会社灯工舎灯工頭、美術照明家、光文化研究家。岡山県立大学、静岡文化芸術大学、金沢美術工芸大学非常勤講師。
筑波大学で工業デザインを専攻し、松下電工(現・パナソニック)を経て、2012年、灯工舎を設立。ライティングデザインを生業とする。主なフィールドは、ミュージアム、寺社仏閣、スポーツ施設。最近では、奈良国立博物館なら仏像館リニューアル、MOA美術館リニューアル、新薬師寺光環境リニューアル、増上寺宝物展示室、カシマサッカースタジアムLED化リニューアル等の照明デザイン、コンサルティングを行う。併せて、展示ライティングデザインも手掛けており、正倉院宝物から現代アートまで、古今東西のあらゆる美術品の魅力をひきだしている。
光文化研究家としても活動しており、明治以降の資料蒐集とともに近代日本のあかり文化を中心に研究している。武蔵野美術大学客員研究員として、2016年に同大学美術館にて、「あかり / AKALI デザインされた日本の光」展を監修した。著書に『学芸員のための展示照明ハンドブック』(講談社)がある。 http://www.lightmeister.co.jp/