光の話 Lighttale for Art and Culture

ネオンの歴史と文化への道のり

広告照明としてのネオン管

ガス放電灯の一種であるネオン管は、1910年にフランスの科学者で工場主でもあったジョルジュ・クロードによって発明された。1910年にパリの政府庁舎グランパレスで初公開され、1912年にパリの理髪店で初めて広告として使用される。当時すでにムア管というガス放電管が照明設備として存在したが、ネオン管は空間を明るくする照明としてでなく、主に広告照明として普及する。

ネオン管以前の広告照明は白熱電球が使用されており、小さな電球を並べることで絵や文字、簡単なアニメーションを表現していた。アメリカやヨーロッパの都市はその広告照明によって随分賑やかだったようだが、輝度の高い電球は眩しく、かつあくまで点を並べることによって表現されている文字や絵は識別がそれほど容易ではなかったようだ。

それに比べてネオン管は高い光度の割に眩しさがなく、線で発光し、どのような色でも表現できるために、広告照明に最適であった。白熱電球に代わって広告照明の手法となり活性化させた。広告の白熱球に対するネオン管は、ちょうど20年代における、それまでの自動車に対する流線型のレーシングカーや、古風な活版印刷の書体に対するバウハウスの未来的な書体と同じような、近代化の一つであった。

ネオンサインとラスベガス

1923年にアメリカに渡ったネオン管は、30年代以降店舗などの広告照明として広く普及するが、ロサンゼルスやラスベガスなどの新しい都市において新しい展開を見せる。

白熱電球時代から、照明広告はあくまで建物に随従するという制約があった。より質の高まったネオン管による広告も、当初は現実の建物の制約を受けていたが、道路中心の都市であるロサンゼルスやラスベガスにおいてはその制約から解放される。それらの都市では広告は主に車上から見る。そのため車上から見るための広告がまず設計され、それに追従する形で建築が作られるという逆転現象が起きたのだ。

建築から解放された照明広告は、特にラスベガスにおいて多彩で巨大なイリュージョンを形成する。この夜景に「エレクトログラフィック建築」と名付けたトム・ウルフは、ラスベガスをこう表現する。

「ラスベガスを、1マイル離れた91号線から眺めれば、建物も樹木も見えず、ただ広告版しか目に入らない。それにしてもなんという広告版だろう! 塔のように高々と空中にそびえている。回転しながら、ときには弱く、ときには強く輝いている。芸術史のいかなる概念をもってしても、そこに展開する多彩な空想を表現することはとうていできない」

照明広告の衰退と、ネオンサインの復興

白熱電球に代わって照明広告を席巻したネオン管も、40年代以降に蛍光灯が普及し出すとその栄華が陰り始める。街の照明広告はプラスチックケースの内部に蛍光灯を仕込んだ発光看板に取り替えられていく。

ラスベガスのネオンサインが巨大化し出すのは第二次大戦後であり60年代頃まで激しく新陳代謝をしながら発展を続けるが、そんなラスベガスの照明広告も70年代には衰退を始める。カジノでは巨大で派手なネオンサインが控えめなものに取り替えられ、ラスベガスに限らずニューヨークのタイムズ・スクエアでも象徴的なネオンサインが撤去される。70年代のエネルギー危機や、街のにぎわいが近郊に移動し市内が過疎化したこと、看板ではなくテレビに広告予算を割くようになったこと、また建築の流行として、派手で醜悪なものでなくバウハウス発のモダンな建築が評判になっていたことなどがその原因である。

ところがネオンサインはここで絶滅することなく、一つの文化として認識され、復興することになる。
建築家であるロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット=ブラウンは、70年代に出版した『ラスベガスから学ぶこと』(邦題は『ラスベガス』)において、20世紀のモダンな建築は70年代当時ではもはや硬直化し建築の発展の妨げになっており、代わりにラスベガスのような自由な場所において、これまでにない新しい発展が行われていることを提示した。その中で、以下のようにポップカルチャーから学習することの可能性について述べている。

「ポップカルチャーから学習してもハイカルチャーの建築家がその地位から引きずりおろされるようなことはない。だがその学習は、ハイカルチャーを現在の需要や諸問題に対してもっと理解あるものに変えるかもしれない。」

「たとえラスベガスの歓楽街できらめく商業上の信条が、われわれのより深い衝動に賢明に訴えはするものの単に表面的なメッセージしか送らないような唯物主義的な操作にすぎず、退屈なサブコミュニケーションであるとしても、だからといって彼らの技術から学ぶわれわれ建築家が、彼らのメッセージの内容あるいは表面を再生産しなければならないということにはならない。」

「リキテンスタインが、漫画からテクニックとイメージを借用して、激しい極端な冒険でなく、むしろ風刺や悲哀や皮肉を表現したのとちょうど同じように、建築家の高度な読本も、石けんを買う必要や遊興の可能性ではなく、むしろ悲哀、皮肉、愛、人間の状況、幸福を、あるいはただその範囲内での目的を、明示するかもしれないのである。」

このような思考の方向転換によって、ネオンサインが批評家や芸術家などの愛好家たちによって活用されることになる。ネオンサインを新しいノスタルジーの対象として見出し、多くのネオンサインを扱う美術館や画商、アトリエが設立される。

文化になるネオン

美術作品においては、50年代にはルーチョ・フォンタナやスティーヴン・アントナコスなどがネオン管を作品に用いていたが、60年代の中頃からネオンの作品を制作するルーディ・スターン、リリー・ラキッチらは、ネオンサインへのノスタルジーを起点にし、衰退しつつあったネオンサイン文化の復興のために貢献する。ルーディ・スターンは1972年に「Let There Be Neon」というギャラリー兼工房を設立し、作品のみならず多くのネオンによる広告看板を製造する。リリー・ラキッチは1981年に、ネオンによる作品や看板を収集、保存、展示するネオンアート美術館を設立する。その他にも多くのネオンを扱うギャラリーや画廊が創設され、広告という限定された分野を超えて様々な作品が制作される。

80年代にはタイムズ・スクエアからネオンサインを排除しようという都市計画が、市民団体の運動によって実現されず「保護」される。ネオンサインは正規の文化として認識されるようになり、そうして再び商業の手法としても復興することになる。

ネオン管は現代の芸術表現においても今なお多く使用されている。これは、広告においても歓迎されたネオンが持つ特性「発光する線」というものが、芸術上の造形においても非常に使い勝手の良いものであるためであろう。そこにはもはや60年代のネオンアーティストたちが感じていたであろうノスタルジーは脱色され、ニュートラルな表現手段として用いられている。

100年以上前に発明され一度は衰退しかけたネオン管が今でも生きながらえている理由には、照明広告という特殊な用途であったことは大きいだろう。大量生産でなく一つ一つ受注する方式であったために市場が小さくなっても単価が上がりにくく、空間を明るくする照明と異なりエネルギー効率などもそこまで求められないので需要が消滅しにくい。

そうだとしても、先に挙げたアメリカにおける建築家や美術家、市民たちの活動がなければ今日まで残ってはいなかったのではないだろうか。彼らがネオンを「保護するべき文化である」と認識し、それを広め、新たな需要や市場を生み出していったがために、今日でもネオンを目にすることができるのだろう。

そして街角や美術館の中で、私たちの表現の領域を広げてくれるのである。

コメント

参考

ヴォルフガング・ジヴェルプシュ『光と影のドラマトゥルギー』(1997、法政大学出版局)

ロバート・ヴェンチューリ他=著『ラスベガス』(1978、鹿島出版会)

リリー・ラキッチ『NEON LOVERS GLOW IN THE DAEK』(1988、ネオン・アート美術館)

Rudi Stern, Artist Whose Medium Was Light, Dies at 69 – New York Times(2016.3.4 アクセス)
http://www.nytimes.com/2006/08/18/arts/18stern.html?_r=0

ネオン史余話|全日本ネオン協会(2016.3.4 アクセス)
http://www.neon-jp.org/98/neos71/history.html

ネオン文化の盛衰と維持保存|小林研究室|東京都市大学建築学科(2016.3.4 アクセス)
http://kobayashilab.net/essay/lasvegas/neon.html

ライト・アート | 現代美術用語辞典ver.2.0 | artscape(2016.3.4 アクセス)
http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88