光の話 Lighttale for Art and Culture

ディスプレイの見る夢 - 荒渡巌|Houxo Que ディスプレイの光 展をみて
星田大輔

人類が炎を手にしてから、ガス灯によって光の供給システムが発明されるまでのあいだ、人工の光は人々の身近にあった。人はオイルランプやロウソクを手元に置き、そこに身を寄せて過ごしていた。現在、ランプの小型化やエネルギー高効率化によって、その身近な光が再来している。そして最もありふれた光源になっているのは、映像の出力装置としてのディスプレイである。

いや、ディスプレイは身近どころではない。私たちの身の回りはディスプレイで溢れている。どの家庭にもテレビやパソコンがある。電車内や路上にも広告用のディスプレイが設置され、デスクワークを中心とした仕事場では必要不可欠だ。そして何より私たちはスマートフォンなどの携帯電話を肌身離さず持っている。私たちの生活は、下手をすれば寝るとき以外はディスプレイを見続けているのである。なぜディスプレイはそんなにも溢れているのか。それは、外部情報の取得をほとんど視覚に頼る人間にとって、情報取得の効率が大変良い方法だからである。日々ディスプレイを経由して得られる情報の量は、それ以外の情報に比べて膨大であろう。むしろディスプレイがなければ私たちはこの情報化社会において必要な情報を捌ききることができない。ディスプレイは現代の人間にとって最も最適化された情報の入力端末なのである。それはもはや眼に連結した体の一部と言っても良い。ディスプレイを介して、私たちは情報そのものを直接脳にインプットしているのだ。

光が無ければ物は見えない。かつて、夜半にはロウソクの明かりが無ければ字は読めなかったであろうから、以前から人工光は情報の取得と密接であった。しかしディスプレイは光源でありながらそこに情報が表示される。情報そのものなのである。それ故に、ディスプレイそのものの存在感はなくなりつつある。ディスプレイは情報の媒体として、まるで音を伝播する空気を普段意識しないのと同じように意識する必要がなくなっているのだ。技術の進歩によって、より高解像度に、より薄型になることでその傾向はさらに顕著になっている。私たちは今、まるで夢を見るかのように、めくるめく純粋な情報の海に溺れているのである。

2019年4月にオープンしたオルタナティブスペース、関内文庫の2回目の展示「荒渡巌|Houxo Que ディスプレイの光」展は、そのタイトルが端的に示す通り、ディスプレイを作品に用いる2名の美術家によるものだった。2名の作家は、それぞれ一つづつ大型の作品を展示していた。

Houxo Queの《Medium of painting》は、通路の突き当りのような空間に道をふさぐようにアクリル板が張られており、その向こうにアクリルに接するようにして大型のディスプレイが設置されている。ディスプレイは一見すると浮遊しているようであり、そこには直視し難いほどの速度で様々な色面が映し出されている。そして、定期的にディスプレイの上部から滝のように水が降り注ぎ、ディスプレイに面したアクリルの表面を流れ落ちていく。その水は6畳ほどの展示室全体を満たし、鑑賞者は長靴を持参したり、入り口で貸し出される底の深いスリッパをはいて作品を鑑賞する。この作品のディスプレイに映し出されるものはただただ乱暴な光だけであり、そこに一般的なディスプレイが取り扱うような情報はない。単に光を発する装置としての働きを担っているのである。そこから発生した光は壁や水面に美しく反射するため、ディスプレイの外でも光を鑑賞することになる。画面の中に何かしらの世界があるのではなく、その画面から光が放たれ手前の空間に迫ってくるのだ。そのうえディスプレイは機材としての存在感・厚みが極力隠されており、ただ発光する矩形のように見える。純粋な光が展示されているかのようである。

展示空間における光といえば、スポットライトなどによる展示照明である。展示照明は作品が自ら発光でもしない限り必要不可欠なものだが、光の扱いは非常に難しい。作品に光を当てたとしても、そこでテカってはいけない。光源が直接鑑賞者の目に見えると眩しくて不快である。無意味に壁や床を照らすのもよくない。照明の位置や角度は大変繊細に決定する必要があるのだ。しかし《Medium of painting》においてディスプレイから発せられた光は、それらの普段は隠蔽される光の奔放な姿をありのままにし、空間に留めていた。特に、ひとたび光が柔軟に湾曲する水を透過・反射したときには、そのビットはディスプレイのそれを遥かに凌駕する水分子のレベルまで細かくなる。この作品は可能な限り余分な情報がそがれた光を放っていたのだ。

情報のない光を鑑賞するということはどいういうことだろうか。それは自分の感覚、つまりは肉体との対話になる。特にこの作品においては激しい点滅を見つめることになるので、まぶたや眼球の運動、視覚の処理がオーバーヒートするような感覚に陥り、それらの機能の限界を知覚することになる。なおかつ足はくるぶし辺りまで水につかって歩きにくい。作品自体は非常に抽象的、非物質的なものを扱っていながら、鑑賞者はひたすら自らの肉体と向かい合うことになる。

荒渡巌の《月の下で眠りたい》は、天井から10台ほどのPC用のディスプレイモニターがひとかたまりになってぶら下がっている作品である。ディスプレイ群は丸ごとゆっくり回転しながら、ときに一斉に点灯し、ときに電源の供給が止まったかのように消灯する。点灯時のディスプレイには何も映されておらず、ただ白く発光する。また消灯した際にはディスプレイ群の内部に仕込まれたLEDランプが点灯し、ディスプレイの輪郭やそれらを連結しているアームが照らされ浮かび上がる。

この作品のディスプレイが表示するものは、Houxo Queの《Medium of painting》と同じか、むしろそれ以上に情報が無い。ものによっては画面がひび割れており、情報伝達装置としては機能しないことが示されている。しかし《Medium of painting》とは相反してディスプレイの物体としての側面が強調されている。巨大な物体が回転していることでその積がありありと感じられるだけでなく、LEDの光によって構造やモニター、アームの質感も観察できる。それにより、日常におけるディスプレイがいかに透明であり、光/情報だけが前景化してたとしても、それがあくまで金属やプラスチックという物質的なもので支えられているということが突きつけられるのだ。なおかつ、《Medium of painting》によって流れ出た水がこの作品の下にも満たされていることによって、入念な安全対策がなされているとはわかっていても、万が一落下した際には感電してしまうことを想像してしまう。作品に通っている電気を意識せざるを得ないのである。ディスプレイを構成している物質だけでなく、その背景にある電気システムや発電所などの巨大インフラの姿までもがそこには立ち現れている。

デジタル社会と言われ、インターネット上で多くの営みが行われる昨今において、それらを支えている物質的な基盤は忘られがちだ。しかしインターネット上にあるデータというものは世界のどこかのサーバーに保存されており、必ず物質的に存在している。ひとたび地震などでそのサーバーが破壊されれば、データは消失するだろう。意識する必要が無かったとしても、私たちは物質から逃れられないのである。この作品は、デジタル社会において隠れている氷山の全容を、ディスプレイという窓を介して引きずり出している。

美術やエンターテイメントなどの広い領域において、ディスプレイやプロジェクションという映像出力装置の特性をなるべくに生かそうとしたとき、それが官能的な仕上がりになることは多い。技術がマルチプロジェクションやプロジェクションマッピング、VR、ARなど多様に進歩し展開していくならば、その傾向はより強まり、よりファンタジックで、より非現実的な体験を扱おうとする。それはまさしく私たちの日常におけるディスプレイの動向と同じである。私たちを支配する物質を忘れさせ、私たちの肉体を忘れさせ、夢を見るように情報を享受させるのだ。しかしこの展示は、同じディスプレイを扱っていながらまったく逆の態度であった。2つの作品によって、肉体と機材という、日ごろは隠蔽されている物質的なものをひたすら浮き彫りにしていたのである。ディスプレイから放たれた光によって夢を見るのではなく、日ごろディスプレイに囲まれて見ていた夢から、その展示室にいる間だけは醒めるのである。

荒渡巌|Houxo Que ディスプレイの光
2019/6/28 – 30 関内文庫
http://kannaibunko.com/event/249